花の溢れる幸福なダストボックス

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2016.02.02 Tue 真善美

真善美を自己と取り違えているのならば、
それを一度叩きつぶして、かれが占拠する空間を取り戻せば良い。
自分が他人のように思える、そして他人は他人ではなく 生きているのかさえ疑わしいと溢すとそう返される。どんなに痛くても。
それがそこにあるから戻ってくることができない とは、物理的で良い。

全くいつからか思い出せないが、私は私自身よりも、
論理的な矛盾や正しさを侵されることに激しい痛みを覚える。
不明瞭なことばかり。
(21世紀に生きているけれど大声で言おう、いや少し声を潜めて、
神と呼ぶようなもの(私には名前が分からない)があるから、
正しさや、それにまつわる様々な素晴らしいものも存在する。
ただ、私がまだ辿り着けないというだけのこと。)

なにか震えたものの息吹を暗闇のなかに感じるのだけど、
あまりに暗く、(そして初めからあるために)疑いをどう抱けば良いのか分からず、
理性の光の射し込むには遠くかけ離れているので、自分というものの小さな余波を
見逃してしまう私に代わって、明晰な現代的な知性が構造を確かめていく。
関心を抱く対象ではない他人がずっと私の部屋にありそれだけは追い出せないまま、
泥沼のように真っ暗で見えないならば、ないとしても構わないはずです。

この世界では、私を含めて幾つかの物体が距離を持って息づいている。
それでも 「決して戦わない」というやり方で戦っているのだと 
明らかにするのは言葉、優れた言葉たち、
暗闇の分析はできない、それでも、暗闇がかけて崩れていく衝撃に耐えながら
吹き抜ける風を感じながら、どうにか息を吸って 吐いている。
何も失わないのだから。
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2015.10.25 Sun 空が高い


私がどこに行こうとしているのか少しづつ見えてきて、
今よりもっと無知だったころ惹かれていたものと 共通の
大きな柱があるのを感じます。

講師に「ときに普通の人のフリをしなければ辛いことがあるかもしれない」と言われ、
笑ってしまった。おかしいのは人々であって私ではない。

高校生の時分、自らを文化的諸産物から遠ざけようと決心したときに、
私は、「これが最後だから」と理由づけした。
大人になるには幅広い経験が必要だから、普通の人のフリをしようと。
高校生のころの行いの半分を、「これが最後の機会だから」と意識し、
決心はいずれ忘れてしまうのでずっとそのまま過ごしていたけれど、
戻ってみればすべては明らかで、
私は中学生に、小学生に、園児に、階段を駆け下りて
ひとつの個体に戻ってきたのだった。

2015.08.20 Thu 19

表面がつるんとしているものに心が惹かれる。
ナイフを入れたり口に含んだり、絵の具を載せて、何度も形を確かめてみたくなる。
曲線も直線も、胸がざわざわするような調和を指でなぞるのはさぞや気分が良いだろう。
線は嘘をつかないから好き。平面になった途端に何かが含まれ始めるようです。

私以外の「誰か」も、同様に生きている ということは
やはりまだ腑に落ちない。

溶けだすように心情を吐露して、いつか
自分と<自分ではないもの>との境界がなくなってしまえば良いのに。