花の溢れる幸福なダストボックス

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2015.08.31 Mon 夢からさめた彼女とは、

本当に大切なものは少しで良いのかもしれない。

肌が震えるくらい静かで緊張したものと、
あたたかく柔らかなものとを、同時に志向しています。

慎みを持つこと、自他について多くを語らないことが、
日本国では善とされているようですが、
誤りを恐れて口をつぐむことが立派だとは決して思わない。

伝達の意思を持たない人間に何の意味があるのか。
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2015.08.28 Fri 笑み栄ゆ

見たいようにしか見られず、読みたいようにしか読めず、
聞きたいフレーズしか受けつけないように出来ているのだろう。
事にふれそれを思っては忘れる。

辻邦生の『驕り』のラウラに自分の影が重なって
うまく解釈できない。
彼女を冷静に眺められたらきっと 私の過失がわかるだろう。生きていく姿勢に関して。
つまり、恋愛や芸術ではなく。
(性と詩がどれほど心地よかろうとそれは現実を圧迫すべきでないと思う、
逆に言えば、明晰な酔いを知らないということで、酔っていない恋愛や芸術を知らないということ。)

全体を部分に対応づけなければ生きていけないような精神状態を乗り越えたら、
関連付けることを抜きに <私ではないもの>を見なければ。
核となるのは<私>の幸福であるし、
私の目を通さずに物事を見ることはできないわけだけれど。
自らの認識がすべてという見地では到達できない境地があるような気がします。
そんな生き方は、あまりにも。

2015.08.27 Thu 言葉は口に出して

頭のなかで色々なことを思っていると、
私というものが バラバラにならずに境界を保ち、
身体ごとあちこちへ出かけられる ということに
なんども驚く。

「話ができるということは居場所があるということです。」
と言われ、胸を打たれた。
誰かを大切にするということは、自分の話をし、相手の話に耳を傾けること。
気持ちよくすることは、サーヴィスは、全然、大切にはしていない。
(真実にこそ価値があり、何もかもが繋がることはできないとしても、
きっと少しだけなら繋がれるのだと思い込んでいる。)

もし、ずっと一人で喋っていたら 寂しくはないのかな。

2015.08.25 Tue 新しい生活も愛もいらない。

「新しい」という言葉はとても特殊な言葉だと感じるけれど、
そもそも特殊でない言葉などはなく、
本当は 一単語ごとに辞書を引くべきなのだろう。
そうすると何事も喋れなくなっちゃうけれど、別段喋らなければならないわけでもない。
ただ、そうせずにはいられないだけ。

他人に向かって開かれた文章上の言葉は情報伝達の色を帯び、
相手がいる作業は繋がることを求めている。(繋がることなどできないのに。)
なるべくその、情報伝達用の言葉を、言葉’を使わないよう気をつけているのに、
どうしてもそちらを使ってしまいがちで、辟易する。

傷つけてしまうので誰も愛さないでください、と思っていたけれど、
誰かとほんの一瞬でも交わりたいと望んでいるのであれば、
傷つけないように大切にするやり方を模索すれば良いのだろうと気づく。

2015.08.23 Sun 獅子

煮詰めた魚と、カボチャと、ゴボウが器に載せられている。秋の匂いのする味だった。
金木犀がそろそろと咲く。朝夕は少し涼しい。

近頃、食事のなかに、人が好んで食べるようなものではない物体が入っている。
少し慣れてきた。磁場みたいなものを作っているのかもしれない。
青い器に入った、がんもどきと卵焼きと人参と、昆布、とかの煮物。私はあれがとても好き

権威に楯突き、慣習を破壊することを、若者の義務として持っています。
大人になったら 子供に志を与え、美しい社会をデザインしたいな。

2015.08.22 Sat 久しぶりの晴れ

起床7:13 今日は暑くなりそう。

繋がるためではなくて、繋がらないために書きたい。

「不幸だから死ぬ」というのは何だか惨めで、第一、
(私の気分)というものほど、偏狭で、移ろいやすく、当てにならないものもない。
散歩をした、駅のとても北のほう。
これほど簡単に"I am lost!"と言えるのが面白く、心が跳ねているからか、身体も
数センチだけ浮いているようでした。

「幸福だけど死ぬ」 という方が良い。
0.01の視力がみつめるお花畑みたいな、滲んだ、ぼんやりした死は
気持ちがわるい。

2015.08.20 Thu 19

表面がつるんとしているものに心が惹かれる。
ナイフを入れたり口に含んだり、絵の具を載せて、何度も形を確かめてみたくなる。
曲線も直線も、胸がざわざわするような調和を指でなぞるのはさぞや気分が良いだろう。
線は嘘をつかないから好き。平面になった途端に何かが含まれ始めるようです。

私以外の「誰か」も、同様に生きている ということは
やはりまだ腑に落ちない。

溶けだすように心情を吐露して、いつか
自分と<自分ではないもの>との境界がなくなってしまえば良いのに。

2015.08.19 Wed 起床11:00

「文字が言葉を表しきれないように言葉は思いを表しきれない」と
そのような理由で憎んでいるわけではなくて、ただ、
嘘を吐きうる この一点が、どうしても許せなかった。

これ以上言葉にふれることは私にはできない、
「言語の堕落に加担しているのではないか」と頭によぎり、そもそも、
あらゆる現象を言葉で捉えようとする自分が口惜しくて仕方がなかった。
何につけ境界とは曖昧なものであり、
ぬかるみに足を取られないようにするあまり随分遠いところにまで来てしまったと
ようやく気づいたのが六月。
二ヶ月時間と花を手折った冷静な脳みそが言うことには、
言い尽くせないものごとを認めた状態から言葉を紡いでゆけば良い。
苦しい要素を飲み込むことは出来ずとも、丁寧に生活すること。

壊れるものはいつか壊れると、ずる賢いフレーズを信用して、
真摯であることを忘れた。
はじめに、物事があります。誰かがいます。
言葉はそのあとで良い、何もかも。

村上春樹も江國香織も雰囲気的でありすぎ、同じウットリなら私は安部公房を好みます。
好み、すべては好みの話だ。
遥か遠いところから辿り着き私自身決定的な別人になったものとばかり思っていたけれど
足跡を辿るうちに濃くなっていく香りは生まれ故郷のものだった。

私はここにいて、光と風と花と詩のなかで生活しています。
このありようは正しく、少なくとも今はまだ、言葉にはならない。

2015.08.18 Tue ジャポネは幸福な国ですね。

どうして美しさは損なわれていくのか。

“She was like milk - too pale, too pure, too simple. She was made to be spoiled.”
— Sarah Waters, Fingersmith

違う、きっとそうはならない、
人はあまりに簡単に落ちてしまう。
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