花の溢れる幸福なダストボックス

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2016.12.31 Sat 年の瀬

私が快活であれば、そして勤勉であればとNHKを観ていて思った。
「ピアニストという民族がいます。」
去年はバレエの特集を観た、このような時分にはクラシックの番組を観る。あるいは、観ない。
距離がなければ解釈はできない、

今年はどんな一年だっただろうか
日本語に取り組もうとして私は泥仕合を申し入れました。
氾濫する省略 「共有しているので、」と「わたくしは分かりましたけれど、・・・」しかし指示は与えられなかった
読み手
私を読む人と出会いました、なぜか? 私が書くようになったからです。
これまでは書かなかったのだろうか、イエスと返さざるを得ない、
書かなかったのだろうか? 答はまだない。

私が快活でそして勤勉であったら、そのように思った、
そうしたら私は芸術家になれただろう 時折そのような場面が現れると、

わたくしは言語に対してのみ勤勉であれたと言えるだろうか?
それだけは言いたい、快活な折に書いた文章(快活ということば、)
詩を見出されたとき私は、書き言葉の世界で芸術を咲かせられたように感じます。
2016年に初めて明確に掴んだことのひとつ。
 ‘Thou dost smile. I sing the while ’希望がなくては

理屈であるが、しかし、理屈ではない。
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2016.12.13 Tue 哀しき夢

昨夜、
中古ですけれど、壊れかけのデスクトップに代わるノートパソコンを父親から譲り受けました。
使い慣れない、からか、言葉に詰まる。
しかしながら、今年のうちに解決しておかなければならない問題が二つ残っており、
今から それに取り組みます。

置き去りにしてきたからには、同様の振る舞いを受け入れるべきなのだろうか、
そのような次元に数週間 留まっていました。
置き去りにするとは?
(耐え難さを感受して)拒絶するということ
しかし多くの場合彼らはわたくしを愛していなかった
病気 という言葉は語彙になく、「愛していることを表明してきたのに、」と、
置き去りにされて、感じながら、戸惑った。
病気だから、という説明しか与えられないような現象に健常者は立ち入るべきではないのだろう。
いけない、震えてきました。
わたくしは、本当の病気の人を知らなかった。清潔なところで無知なままで、
暴力を知らなかった。だから、わたくしは許すでしょう。そしてそこに未来はない。
わたくしは、何よりもまず自分自身を把握していなかった。それは、暴力です。
(過去に、心優しい数名の警告を受け取ったことはあったけれど、蒙昧だった。)

ふたつめ。
「何を求めているのか分からないということは
つまり、何も求めていないということなのだろうか、
と思い、
寧ろ、何を求めているのか分からなくなった の方が適切かと知る。」
これだけ書いて少しの間、放っておいたことがあります。
わたくしには本当にさかいめがない。
どんな解釈も出来ずに戸惑っていたけれど、きっとその一言に落ち着くのだろう。
「文法を自分で作っても良い。」と予備校の講師に初めて言われたとき、まるで理解できなかったことを覚えている。
しかし、そうするより他に解決策はない。
そうしなくては生きていかれないのだから、わたくしは、枠組みを拒絶した後に、
新たな枠組みを作らなくてはいけない。

ものごとを抽象化して一言で済ませては無意味だろうね、
しかしながら働きにはスローガンが要る。
心に留めおくだけで十分なのかもしれない。